工業の歴史
港区の近代工業の黎明期
1870年代、明治政府は「富国強兵・殖産興業」のスローガンのもと、欧米列強を目標とした近代化政策を進め、工部省の先導のもと富岡製糸工場をはじめとする多くの工場、鉄道、鉱山などを経営しました。
工部省の本庁舎が、1872年、銀座から赤坂に移転・新築され、1875年には、芝赤羽の久留米藩邸跡に日本最初の機械製作の官営工場として「赤羽工作分局」がつくられ、製鉄機械や蒸気機関の製作が始まります。 工部省は、芝赤羽のほか、品川にガラス製造、深川にレンガ・セメント製造の工場を設置し、「三工作分局」として、多額の投資を行いました。後に、品川と深川の工場は民間に払い下げられ、芝赤羽の工場は海軍省のものとなります。
明治時代には官営のほか、民間の工場も多数設立され、その多くが旧芝区の古川流域に集中しています。「大塚靴工場」、「三田製紙所」、「芝浦製作所」、「東京瓦斯第一製造所」、「池貝工場」、「日本電気」、「沖商会電気製作所」、「東洋印刷」などです。この古川流域が日本の近代工業の発展に大きな役割を果たしたことが分かります。大正期には、第一次世界大戦をきっかけとして、ネジなどの金属部品を製造する工場が水運の便利なこの古川流域に集中し、工場数・従業員数も増加をたどり、京浜工業地帯の一角を形成することになります。
また、このころ、愛宕下から現在の新橋である田村町の地域に、洋風家具製造業が集まり、洋風建築に対応する新しい産業として定着しました。
戦後、大きく成長したのが印刷工業です。港区は、政府機関・大使館・大企業などが数多く集まり、これらの間での情報交換は、大量の印刷物を必要とします。さらに、印刷物の作成は、打合せや校正など、受発注双方で密接なやりとりが必要になります。港区の印刷工業は、これら諸条件を、最大限に活用し都心型工業として港区を代表する産業として確立しました。