concon株式会社
concon株式会社
だるまをポップでかわいく
価値を高めて海外へ挑戦
concon株式会社
代表取締役髙橋 史好さん
代表取締役CEO
髙橋 史好さん/Fumiko Takahashi
■経歴
高校時に単身インドへ留学。滞在先のファミリーから刺激を受け、起業家を志す。帰国後、「インドJKの日常」というテーマでTikTokを運用。慶應義塾大学進学後は、地元群馬県で三輪タクシー「トゥクトゥク」を走らせる事業や、インド向けYouTubeチャンネル事業を開始。2022年にYouTube事業を売却し、翌年インバウンド向けガラスリングブランド「TOKYO LOLLIPOP」を立ち上げ。2024年には地元の張り子だるま工場と協力し、だるま事業もスタートさせた。
●極東 -THE FAR EAST-:movie
地元の高崎だるまを訪日観光客向けに
ブランディングして高価値に
―「concon株式会社」の事業内容を教えてください。
海外からの訪日観光客向けのお土産ブランド「TOKYO LOLLIPOP」を展開しています。扱っている商材は、キャンディのように可愛いガラスリングと、POPにリブランディングされた高崎だるまの2つがメインです。
お土産業界や、高崎だるまをはじめとする伝統工芸品の業界お土産業界には長らく、なかなか新しい人や会社が参入してきませんでした。私はそんな業界でこそ、クリエイティブの力を発揮してかわいいお土産ブランドを作りたいと思っています。
―今は特にだるま販売に力を入れていますね。
2020年1月、ラフォーレ原宿でガラスリングのポップアップショップを開いた時には、空間設計に外部の人やお金をかける余裕がありませんでした。
指輪は小さいので、大きくて正月らしく、7坪のスペースを埋められるものを探している中で、私の地元・群馬県高崎市豊岡地区の特産品、だるまを思い出し、置いてみることにしました。それが思った以上に好評で、外国人観光客の方から「15万円、30万円でも出すから、売ってくれ」と頼まれました。
インバウンド客が多くいる地で、見せ方やブランディングを工夫すればだるまの価値を高められると感じ、ポップアップショップが終わった2週間後には、地元に帰って町中のだるま屋さんに挨拶をし、私たちのブランドコンセプトにあったポップなだるまを作ってほしいとお願いしました。
―地元のだるま屋さんからの反応はいかがでしたか。
伝統工芸の世界なので、「ピンクのだるまを作ってほしい」と言い出したらどんな反応をされるか不安はありましたが、私がこの町で生まれ育ってきたこともあり「史好ちゃんが言うなら」と協力してくれました。実際に売れると喜んでくれて、うれしかったです。
だるま屋さんは2月から10月の稼働に余裕があることも多いですし、書き入れ時の年末年始や選挙時も需要は小さくなっているのですが、うちでは時期に関係なくインバウンド向けのお土産やインテリア用品としてだるまを売り出せます。
「地元の文化を守っていて偉いね」「地方創生に貢献しているね」と言われることもありますが、”支援”という文脈で切り取られることには違和感があります。
だるまが売れたのは、インバウンド客に高く評価されたプロダクトの強さがあったからです。だるまは、私たちが作ってきたどのプロダクトよりも海外の人が感動したものです。こんなに素晴らしいプロダクトが私の生まれた町にあって、ラッキーだと感じています。
高校生のときにインドで出会った
起業家にあこがれ、経営者の道に
―起業のきっかけを教えてください。
私は若手の起業家だとめずらしいのですが、家族や親戚に商人や起業家はいません。群馬県高崎市で生まれ、両親は学校の教員をしていました。厳しい家庭で生まれ育ったからこそ反抗期が長く、反動もあってか、自分の知らない新しい世界への憧れが強くなっていたようにも感じます。
そんな中、高校2年生のときに学校や親の反対を押し切ってインドに行きました。インドの裕福な家でホームステイをして、子どもに日本語を教えたのですが、そこで面倒を見てくれた人(パパ)が起業家でした。パパの不動産ビジネスによって、街にはビルがおもちゃのようにどんどん建っていました。地元とは正反対すぎる生活に衝撃を受け、強いあこがれを抱いたことが、起業しようと思ったきっかけでした。
―インドで出会った起業家のどんなところに魅力を感じましたか。
インドには財閥文化が強いのですが、私が出会ったパパは貧しい家庭に生まれ、道で絵を売るところから始めて1代で成り上がったという当時のインドではめずらしい非財閥の起業家でした。私が恵まれた日本で「できない」なんて言っていられない、と思いました。
そしてそのパパが「16歳の女の子でこんな国に来る子はいないから、君は肝が据わっている。絶対起業した方がいい」と言ってくれて、英語もできない私を仕事場や商談に連れて行ってくれました。そのことで起業家の解像度はどんどん上がっていきましたし、あこがれも強くなっていきました。
今の私のモチベーションや、事業をスケールさせていきたいという強い思いは、ここで見たインドのパパの姿への憧れが大きいと感じます。
―実際にどのような形で起業したのでしょうか。
当時は高校生だったので、資本もスキルも人脈もなくてもできるメディアを始めようと思いました。試行錯誤を繰り返し、何度もピポッドを繰り返していました。
やっと当たったのが2020年、大学に入学してから始めた、インド向けのエンタメYouTubeチャンネルで、登録者は17万人、そのうち98%はインドからの視聴者でした。 内容は、日本の学生たちがインドの文化を見たりカレーを食べたりしてリアクションをする、というものでした。このチャンネルは1本目の動画から現地で話題になり、2週間で収益化しました。
ただ、自分ではない、誰かが作ったサービスやものを視聴者に紹介するという商売だったので、手触り感を得られず、自分が起業家なのか、インフルエンサーなのか、という迷いが生じました。2年ほど経った後にもっと商売に近いことをしようと思い、メディアをいったん売却して、そのキャッシュを元手に「concon株式会社」を立ち上げました。
私は、多感な16~21歳の時期を、インドの街で唯一の日本人として過ごし、日本人インフルエンサーとして活動して来ました。“日本人”として沢山のフィードバックを浴びつづける中で、気づけばどこか勝手に日本を代表している感覚があり、それが、世界に向けて日本を発信したいという今の思いにつながっています。
そして日本向けのマーケティングよりも海外の人に刺さるものを作る方が得意だと感じてきたので、インバウンド向けのビジネスを始めることにしたんです。
―まずは自分でメディアを作ったのですね。
TikTokで動画を出して200万回再生されたこともありましたが、それをビジネスにしていくのはなかなか難しかったですね。好きなものを作って形にするだけでは起業家になれないと実感し、挫折を味わいました。そこからは、どう市場を見て作るか、どういう仕組みでやっていくかを考えるようになりました。
―その後、ガラスリングやだるまの販売に注力していくようになったのですね。
今は世の中にいいものが溢れていますよね。その中であえて新しいものを売るからには、何か私たちがいないといけない理由が必要だと考えていました。そこで、他の人たちが開拓できなかったインドの工場を開拓し、アクセサリーをリブランディングして日本に持ってくるというビジネスを始めました。
ゴールに近づいているかわからなくても、
自分が決めたことを地道に積み上げていく
―華々しく活躍しているように見えますが、起業にあたっては、地道な苦労も多かったのではないでしょうか。
YouTubeも、優れた才能があっていいコンテンツを量産できたのではなく、編集に10時間かかるコンテンツを200本アップしたら、登録者数20万人弱になっていたというだけなんですよね。
起業家の裏側には泥臭いこともたくさんありますが、私は生まれは保守的な家庭でしたし、習い事や勉強も干渉されながら淡々と進めてきたタイプだったので、実は地味な作業の方が心地よく感じるんです。一見ゴールに近づいているかわからなくても、自分が決めたことを積み上げていく過程を大切にしています。
―組織を運営していく中で壁にぶつかった経験はありますか。
YouTubeを運営していた時に、チームが壊れてしまった経験がありました。
私は感性がある方だと思っていたのですが、論理的に話すことが苦手で、周囲に「なぜかわからないけど、このサムネイルは絶対赤がいい」と言い張って他の人の意見を聞かない、ということもありました。でも私は社会人経験がないので、他の人に協力してもらわなければ本当に何もできなかったんです。
やりたいことをやるためには人に納得してもらわないといけないと痛感し、人に共感、納得してもらうための説明を練習するようになりました。それからは少しずつ人がついてきてくれるようになりましたし、メディアでも話しやすくなりました。
―学生のタイミングで起業してよかったと感じることや、逆に大変なことはありますか。
私は、起業家になることを16歳の時点で決意しており、就職を考えていなかったので「早いに越したことはないだろう」と学生起業をしました。
学生のうちの起業にも、社会人経験を積んでからの起業にも、それぞれにいいところがあると思います。私の場合、YouTubeも学生だったから伸びたと思いますし、学生だったからこそ巡り合えた仲間もたくさんいます。
物販に関しては若い会社の優位性はそんなになく、資本力があった方がいいとは思いますが、「だるまの生産地に生まれた学生がだるまを売っている」というストーリー性は強かったと感じています。ただ決してそれに甘んじず、本当に良いプロダクトを作っていかないことには、会社の永続はないと思っています。
AI技術が進展すると、
コンセプトを生み出せる人の価値が高まる
―起業直後に百貨店などの販路を開拓し、大きく躍進しました。
インド向けのメディアで20万人弱のチャンネル登録者数を持っていたということは、私の武器になりました。ただの大学生の名刺しか持っていなかったら百貨店さんは動いてくれなかったでしょうが、1つ小さい武器があったから話を聞いてくれたのだと思います。
百貨店さんへのポップアップショップ出店は1つ決まると、面白いことに他のところでもどんどん決まっていきました。
私はクリエイター気質が強いですが、それと同じぐらい商売人でいたいという気持ちもあります。好きなものを気心の知れた人と共有していきたいというより、好きなものでどう世界中に大きく展開していけるかということへの興味が強いですね。だからこそ、最初から大きな商業施設でショップを出すことを目指していました。そして今、百貨店さんがインバウンド商材に興味を持ってくださることが増えてきて、うれしく思っています。
―事業をしていくうえでのご自身の強みは何でしょうか。
「0」から「1」を生み出すのが好きですね。例えば、カイシャダルマのコンセプトです。すでにいい商品やプロダクトがあふれる今の時代、既存のものやワードの掛け合わせや、人々が感動する企画、ストーリー作りが大切になってくると感じます。これからAIの技術が進展すると、テーマやコンセプトを作れるプロデューサーの力が問われていくと感じました。
―会社を経営する上で大切にしていることはありますか。
義理を通すことや誠実でいることは大切にしています。創業間もないスタートアップの「カオス」な状態のうちの会社に来てくれた人に「いい選択をした」と胸を張ってもらいたいですし、「この段階で史好ちゃんを見つけられてラッキーだったな」と感じてもらえるところまではやりきろうという思いが強いです。取引先にも「史好ちゃんを2年前から発掘していたよ」と言ってほしいから頑張る気持ちもあります。これはプレッシャーというよりも、むしろ生きがいになっていますね。
海外にも進出し
高崎だるまのブランド価値を育てたい
―今後の展望や目標を教えてください。
今後はインバウンド向けに商品を売るだけでなく、海外にも進出しようと思っています。今年からは台湾でだるまの取り扱いが始まりました。
それから、もっとラグジュアリーなだるまを販売していきたいです。昔は200軒あった豊岡地区のだるま屋さんは今、50軒になり生産の体力が落ちています。今までと同じ価格帯でたくさん売り続けていくというのは業界の構造上、難しいのは明白なので、戦い方のシフトが必要だと思っています。だからこそ、単価を上げ、少なくともしっかりプレミアがつくよう、高崎だるまのブランド価値を育てていきたいと思っています。
―今後の課題はありますか。
年末などの時期によっては生産が需要に追い付かなくなってしまうので、生産体制をしっかり作っていかなければいけません。
私がデザイナーや服飾のバックグラウンドが一切ないからこそ、これからブランドがどのように山を登っていくのかも課題ですね。仲間を入れた方がいいのかなど、考えることはたくさんあります。
―2024年11月に港区立産業振興センターに登記したそうですが、センターを選んだ理由を教えてください。
私は淡々と仕事をしていきたいタイプなので、センターの比較的落ち着いた雰囲気が気に入りました。ときどきイベントがありつつも、普段はそれぞれで静かに仕事をしている方が多いからこそ、自分のやるべきことに集中しやすいです。
ものづくりをしているので、ミシンなどの機材を全部使っていいというのもありがたいですね。いろいろな機材を使えるからこそ、だるまを3Dモデリング化することができました。それから、スタッフの皆さんが優しいこともよかったです。
―起業を考えている人に向けたメッセージをお願いします。
起業は高い山のように感じるかもしれませんが、全くそんなことはありません。私の最初の起業体験は、ただ撮った動画を編集して出すという、お金も時間もない高校生でもできることでした。そんな1つ1つの小さな成功体験が自分の自信につながって、気づいたら大きな挑戦ができるところまで来たと思います。どんな小さいことも起業です。最初から大きなことをしようと思わず、一歩目を踏み出してみてはいかがでしょうか。
記事投稿日:2025年3月18日